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安房里見家

秋元義久 あきもとよしひさ ?〜1564
里見氏家臣。上総小糸城主。1564年の第二次国府台合戦に敗北後、勢いに乗る北条勢の攻囲を受け、果敢に抵抗したがついに戦死し、落城となった。

安西実元 あんざいさねもと ?〜1564
里見氏家臣。第二次国府台合戦において乗馬を射られた当主義弘を自分の馬に乗せて脱出を勧め、自らは敵勢に突攻して戦死したとゆう。

板倉昌察 いたくらまさあき ?〜?
里見氏家臣。1590年に増田長盛による検地に際し、里見氏側として立ち会った。

市川玄東斎 いちかわげんとうさい ?〜?
里見氏家臣。甲斐武田氏臣土屋昌次と折衝して武田氏との同盟に尽力した。

上野助国 うえのすけくに ?〜1533
里見氏家臣。官途は筑後守。稲村城合戦において里見実堯側について戦死。

烏山時貞 うやまときさだ ?〜1534
里見氏家臣。上総烏山城主。通称弾正・左衛門大夫。娘は里見義豊の室。1534年、稲村の変では当然ながら婿義豊に味方して戦死した。

岡本元悦 おかもとげんえつ ?〜1585
里見氏家臣。「元悦」を名乗りとする場合、訓みは「もとよし」か。官途は但馬守。晩年は入道した。里見義弘・美頼に仕え、1585年下野佐野城をめぐる戦いで戦死したとゆう。

岡本随縁斎 おかもとずいえんさい ?〜?
里見氏家臣。岡本通輔の男。安泰と号す。里見水軍の一翼を担う。

岡本兵部少輔 おかもとひょうぶしょうゆう ?〜?
里見氏家臣。義弘・美頼・義康・忠義の四代に亙って仕えた。1580年正木憲時の乱では鎮定軍として活躍。1606年当時寺社奉行を務め知行二百四十九石(「里見分限帳」)。

岡本通輔 おかもとみちすけ ?〜?
里見氏家臣。里見義通の弟。岡本氏元の養子となる。官途は左京亮。

岡本頼元 おかもとよりもと ?〜?
里見氏家臣。岡本随縁斎の男。里見水軍の一員として上総などに転戦した。

小野忠明 おのただあき ?〜1628
里見氏家臣。通称次郎右衛門。里見義康に仕え、初め御子神典膳と称した。のち諸国を遍歴し、伊東一刀斎に師事。1593年家康に仕え、秀忠に附して二百石を給され、姓を小野に改めた。1600年秀忠の信濃上田城攻めに従軍したが、軍律違反に問われて改易。その後許されて六百石を給された。大坂の役では両陣に参加した。

加藤信景 かとうのぶかげ ?〜?
里見氏家臣。通称孫五郎。「里見家分限帳」によると1606年に知行二百石。馬上八騎を率いる組頭。

加藤弘景 かとうひろかげ ?〜?
里見氏家臣。加藤信景の男。通称太郎左衛門。伝奏役を務めた。小田原の役に従軍。

薦野頼俊 こものよりとし ?〜?
里見氏家臣。通称神五郎。「里見家分限帳」では里見氏一門とされ、1606年の時点で知行二千五百二十四石余。主家改易後は水戸徳川家に仕えた。

酒井敏房 さかいとしふさ 1520〜1577
里見氏家臣。酒井敏治の男。上総東金城主。1535年に家督を継ぎ、1538年の第一次国府台合戦では殿軍を務め敗走する里見軍をまとめて北条氏綱に対抗した。のち北条氏に降る。

酒井政辰 さかいまさとき 1551〜1603
北条氏家臣。酒井敏房の男。通称左衛門佐。政は北条氏政の偏諱か。小田原の役では浅野長政隊と戦うが戦後東金城を退去、上総幸野に隠棲した。

里見実堯 さとみさねたか 1483〜1533
里見成義の男。義通の弟。通称権七郎。官途は左衛門尉・左衛門大夫・上総介。生年は1494年とも。1518年の兄の死後、幼少である甥の竹若丸(のちの義豊)を後見した。小弓御所足利義明に属し、1526年には鎌倉を攻めて北条氏綱を撃破したとゆう。その後家督を譲らないのではと危惧した義豊により稲村城に急襲され、自刃した(稲村の変)。義豊に招かれて誘殺されたとゆう。

里見忠義 さとみただよし 1594〜1622
里見義康の男。官途は安房守、侍従、従四位下。1603年父の死を受けて家督を継ぐが、幼少のため一族の補佐を受けた。1606年に元服し、徳川秀忠の偏諱を受けて忠義と名乗り、従四位下安房守・侍従に叙任。1611年大久保忠隣の孫娘を娶ったが、このため大久保忠隣事件に連座して改易。伯耆倉吉に配流となる。若くして病没し、里見氏は断絶した。

里見義堯 さとみよしたか 1512〜1574
里見実堯の男。通称権七郎。官途は刑部大輔・安房守。生年は1507年とも。1533年の父の横死のとき金谷城にあったが、百首城に移って籠城し、1534年に北条氏綱の援助を得て義豊軍を安房犬掛に破り、稲村城において自刃させ、里見の家督を継いだ。しかし1537年に安房・上総方面にも進出しはじめた北条氏とは敵対関係となって断交、翌年に小弓御所足利義明らと結んで国府台に戦って敗北。義明は戦死し、下総をめぐる戦いは北条氏の優位となる。しかし義堯は攻勢の手を緩めず、上総に進出して久留里城を落とすとここに本拠を移し北条氏と対抗するため長尾上杉氏と結び、その後越相同盟がなると甲斐武田氏と結ぶなど、外交にも巧みであった。1552年土岐頼定をして椎葉城主武田信政を自刃に追いやる。1554年・1555年と二度に亙って浮渡川で北条氏康と戦いこれを撃破。1556年には相模三浦郡を侵し、順調に北進する北条氏も東の里見氏には苦戦を強いられた。1562年には隠居して家督を息子義弘に譲る。1564年の第二次国府台合戦で再び北条氏と戦って破れるも、1567年には上総三船台(三船山)において北条軍に大勝して大打撃を与え、房総半島に君臨した。享年63歳。

里見義高 さとみよしたか ?〜?
里見義頼の男。里見義康の弟、忠義の叔父。別に義英。官途は讃岐守、従五位下。上野板鼻一万石を領す。1513年職務怠慢の罪に問われて改易となり、岳父である酒井家次に預けられ、のち酒井家より四百石を給されて家臣となる。

里見義豊 さとみよしとよ 1513〜1534
里見義通の男。生年は1514年とも。1518年に父が死没すると、幼少であったので叔父実堯が後見して国政を預かった。しかし実堯が家督を譲らないと思った義豊は1533年、これを自刃に追いこんで家督を戻す。以後上総武田氏(真里谷武田氏)の援助を受けて統治に乗り出すが、復仇を狙う実堯の息子義堯は北条氏綱や安房国人衆の支援を受けて反攻を開始し、滝田・犬掛にこれと戦って敗退、稲村城に籠ったがついに自刃した。しかし実堯が鎌倉を攻めた際には既に当主であったともいい、この内紛の実情は不明。

里見義弘 さとみよしひろ 1530〜1578
里見義堯の男。通称太郎。官途は左馬頭・上野介・陸奥守。1561年の長尾景虎の小田原攻囲に従軍。翌1562年に父の隠居を受けて家督を継ぐ。北条氏との抗争は激化の一途を辿っており、1564年の第二次国府台合戦では北条綱成隊に破れ、上総へ逃れて勢力の回復を待ち、1567年には上総三船台(三船山)において逆に北条軍を撃滅した。父義堯の死後北条氏と和睦。死に臨んで息子梅王丸に安房、弟義頼に上総を領知するよう遺言したが、これを不服とする義頼により梅王丸の家督は簒奪された。義弘は領民を労わり、不正は厳しく糺し、重税を課す家臣を追放するほか、自らは質素な生活を送っていたらしい。領民たちは義弘を「万年君」と呼び慕ったといわれる。万年でも領主様でいてほしいとゆうことである。

里見義通 さとみよしみち 1480〜1518
里見成義の男。小弓御所足利義明に属したのはこの頃とゆう。1508年安房鶴谷八幡宮を建立した。里見氏の事跡には不明なものが多いが、義通以降その存在が実証されている。成義以前は伝承に頼るものが多く信用に足らない。

里見義康 さとみよしやす 1573〜1603
里見義頼の男。官途は安房守、侍従、従四位下。羽柴安房侍従と称した。小田原の役では折角の好機にも関わらず、遅参して上総を取り上げられ安房一国の知行に留まった。鎌倉攻略のこだわったからだとゆう。役後、館山城を修築してここに移る。1591年に従四位下侍従に叙任。文禄の役では肥前名護屋在番。関ケ原では東軍について宇都宮に出陣し、戦後常陸鹿島郡に三万石の加増を受けた。

里見義頼 さとみよしより 1543〜1587
里見義堯の男。義弘の弟。通称太郎(家督相続後であろう)。別に義顕。官途は左馬頭・刑部大輔・安房守。1578年の兄の死後、その遺児梅王丸(義重)との間に家督争い起き、1580年(1579年とも)義頼は久留里城を攻めて義重を出家させて家督の座についた。この義頼の家督簒奪に対し重臣正木憲時は反抗、同年決起したが、翌1581年本拠大多喜城に暗殺され、事態は終息した。北条氏との戦いは続き、憲時の乱に乗じて1581年房総半島に侵入した北条軍を撃退するなどしている。里見氏の本拠久留里城には移らず、安房岡本城にあったといわれるので、家督簒奪の事実を気にかけていたのかもしれない。

高石山城守 たかいしやましろのかみ ?〜?
里見氏家臣。1591年秀吉による上総没収のため本領である上総亀山郷内の所領を失い、その代替地として山下郷に30貫文の知行と、山下郷代官職を与えられた。のち武石と改姓。元々「たけいし」と訓んだか。

多賀越中守 たがえっちゅうのかみ ?〜1564
里見氏家臣。上総池和田城主。官途は別に越後守。1564年第二次国府台合戦において戦死した。息子蔵人高明は池和田城に籠って北条氏政と戦ったが、自ら城に火をつけて自刃した。

土岐頼定 ときよりさだ 1523〜1583
里見氏家臣。土岐頼元(頼房・為広)の男。別に為頼とも。官途は弾正少弼。上総万喜城主。美濃土岐氏の出自とゆう。1564年の第二次国府台合戦に里見氏が敗れると北条氏に転仕し、旧主里見氏と戦った。

土岐頼春 ときよりはる 1546〜1590
北条氏家臣。土岐頼定の男。官途は右京大夫。1583年父の死を受けて家督を継ぎ、上総万喜城主。上総東部における北条方として1588年に里見義康と戦う。小田原の役で里見氏の攻撃を受けて落城。

中里実次 なかざとさねつぐ ?〜1534
里見氏家臣。里見義実の男。中里氏を継ぐ。成義・義通・義豊の三代に仕えた重臣で、実堯攻めに反対した。翌年逆襲を受けた義豊を守って戦死。

堀江頼忠 ほりえよりただ ?〜1617
里見氏家臣。官途は能登守。「里見分限帳」では1606年の時点で千三百五十二石余の大身。主家改易後、主君忠義に従って伯耆倉吉に同道し、倉吉にて死去。

正木時茂 まさきときしげ 1515?〜1573?
里見氏家臣。正木通綱(時綱)の男。通称弥九郎。官途は大膳亮。安房長狭郡山之城主。父及び兄大膳大夫(この人については不詳)は1533年の稲村合戦において里見実堯側について戦死。「正木家譜」ではこのとき弥九郎も招かれたが、負傷しつつも逃げ帰ったと伝える。このため時茂が家督を継ぎ、実堯の息子義堯に仕えて1534年父の仇義豊を討つなど、各地を転戦した。1538年の第一次国府台合戦に従軍、1542年に上総勝浦城を攻略、1544年大多喜城を攻めて真里谷朝信を降し、以後これを本拠とする。1545年には里見義堯の軍代を務めるからかなりの重臣であった。弟時忠も兄をよく助けて戦った。その後も1561年には上杉謙信の関東出兵に呼応して相模三浦郡に乱入、1564年第二次国府台合戦では敵勢を突破して生き延び、1565年矢作城主伊能景信を激戦の末破り、1567年三船台合戦では北条軍に大勝した。槍に長じて「槍大膳」と呼ばれる。弟時忠・甥頼忠らが里見氏を離れても里見氏に忠誠を尽くした豪将。没年は不詳だが、1572年12月の文書を最後とし、1574年2月に継嗣憲時の文書が登場するので、1573年に没したものと思われる。仏心に篤く、1554年に大多喜東長寺に、1556年には安房長安寺に法衣を寄進している。

正木時茂 まさきときしげ 1576〜1632
里見義頼の男。里見義康の弟。通称正木弥九郎。官途は大膳亮。時堯ともいうが、関ケ原以後はすべて弥九郎時茂なので関ケ原以前に名乗ったか。1581年の正木憲時討伐後、大多喜城に入ってその名跡を継ぐ。1590年の小田原の役後里見氏は下総を没収され、時茂は館山に住した。1603年に兄義康が死去すると幼少の梅鶴丸(のちの忠義)を補佐した。「里見家分限帳」では1606年時点で知行は八千石。1614年の大久保忠隣事件に連座して里見氏は改易、忠義・時茂は鳥取倉吉に預けられ、1622年に忠義が死去すると鳥取潘池田光政に預けられた。その後仏門に入ったか。

正木時忠 まさきときただ 1520?〜1576
里見氏家臣。正木通綱(時綱)の男。槍大膳時茂の弟。官途は左近大夫。父の戦死後、里見義堯の稲村奪還戦に参加して仇を討つ。兄時茂とともに上総を転戦し、1542年に上総勝浦城を略取するとここを本拠として里見水軍を率い、1556年には相模三浦郡に侵攻して北条水軍と戦った。下総の千葉氏らへの攻撃も行い、1550年・1560年に侵入。しかし1564年の第二次国府台合戦に里見軍は敗退、時忠も次男時勝を失うなど里見氏の被害は甚大であった。その後時忠は権五郎(のちの頼忠)を人質に出して北条氏に臣従(「萩野文書」・「三浦文書」)、長年仕えた里見氏と敵対関係に入り、干戈を交えることとなった。のち里見氏に帰参する。

正木時通 まさきときみち ?〜1575
里見氏家臣。正木時忠の男。通称十太郎。官途は左近将監。第二次国府台合戦に父と共に参加した。戦後父が北条氏に降るとこれに従い、同年上総一宮城を攻略した。その後再び里見氏に仕え、上総勝浦城に拠る。

正木憲時 まさきのりとき ?〜1581
里見氏家臣。官途は大膳亮。正木弘季の男といい、正木時茂の養子となったとされるが不詳。時茂の死後大多喜城主となる。1574年の文書が初見(「清澄寺文書」)。1578年に里見義弘が没すると遺児梅王丸(義重)と義頼の間に継嗣争いが起き、義頼は梅王丸を出家させて家督を継いだが、憲時はこれに不満をもって1580年に挙兵、安房に侵攻して義頼軍と戦ったが敗れた。翌年本拠大多喜城を攻められ、憲時は家臣に刺殺されて城は落ちた(「榊原文書」など)。世に「正木憲時の乱」とゆうが、実際は里見正統を守ろうとする義戦であり、敗れたとはいえ端的に叛臣の烙印を押すのは誤りである。

正木弘季 まさきひろすえ ?〜1564
里見氏家臣。正木通綱の男。第二次国府台合戦において戦死した。

正木通綱 まさきみちつな ?〜1533
里見氏家臣。官途は大膳大夫。1508年安房鶴谷八幡宮の棟札にその名が残る。出自は不明で、相模三浦義同の息子とも三浦時高の息子とも。義同の息子なら伊勢宗瑞の攻撃のとき、時高の息子なら義同による時高殺害のとき安房へ逃れてきたか。一般に時綱の名で知られるが、時綱・通綱を別人とするならば、通綱を時綱の子とし、時茂の兄に疑すことも可能。里見義豊が稲村城の叔父里見実堯を攻めた際、実堯を守らんとして戦死した。

正木道俊 まさきみちとし ?〜1611
里見氏家臣。槍大膳正木時茂の男。官途は石見守。父死後、大多喜城を正木憲時が継いだので道俊は金山城主となった。1580年に憲時が謀叛を起こすとこれに呼応し里見義頼と戦うが敗北。翌年に憲時が暗殺されると義頼に降伏した。1590年に知行五百三十石。

正木頼忠 まさきよりただ 1551〜1622
北条氏家臣。正木時忠の男。通称権五郎、別に頼時・時長・邦時とも。官途は左近大夫。環斎と号す。父時忠が里見氏を離反して北条氏についた際、人質として北条氏のもとに送られた。後に里見氏に復帰し、1576年に父時忠が没すると勝浦城主となる。正木憲時の乱では先鋒となってその本拠大多喜城を囲んだ。徳川家康の関東入部後、隠居して環斎と号した。「里見家分限帳」では1606年時点で知行一千石。娘(お万。母は北条氏隆の女)が家康の側室になり、頼宣(紀州家)・頼房(水戸家)を産んだ縁もあり、万の兄為春は紀伊徳川家に仕え、里見氏改易後は頼忠も同地へ赴いて死去。

正木頼時 まさきよりとき ?〜?
里見氏家臣。官途は淡路守。1589年頃には百首城に在城した。「里見家分限帳」では1606年時点で知行七百石。中老を務めたとゆう。

鑓田勝定 やりたかつさだ ?〜?
里見氏家臣。官途は美濃守。上総夷隅郡小浜城主。1588年里見義頼の命を受けて相模三浦に侵攻して北条氏直と戦うが、その隙に小浜城を正木左近大夫(頼忠)に奪われた。のちこれを奪還。1590年関東入部してきた家康に抵抗し、本多忠勝の攻撃を受けて没落。但し1588年の段階で正木頼忠は里見氏の家臣であり、本項が信頼に足るものでないことを明記しておく。

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